月のワルツ



―――――時間は、ほんの少し遡る。

宿の修復や復興に一日を費やし陽も暮れた後、二匹は漸く、と言った感じで部屋に落ち着いていた。
「お疲れさん、今日も大変だったなー。」
どっこいせ、と寝台に腰を落ち着かせるバルドを横目に、コノエはオヤジだなあ、と笑いながら寝間着に着替えている。
「バルドもお疲れ。…ああ、まだ寝るなよ。右手の布替えないと。」
「ん?ああ、そういえばそうか。」
じゃあ頼む、と真新しい布を手に駆け寄ってきたコノエに、右手を差し出した。
「もう大分、癒えたな。」
コノエが、バルドの手の甲に巻かれた布を取って怪我の様子を窺い、安心したように口を開く。
「ああ。何とか、な。」
布を取り去られた右手を見遣り、指を慎重に動かしながらバルドは穏やかな笑みを浮かべた。

―――――リークスの戦いから月が幾つも巡り過ぎた。

心身ともにボロボロで、あの森から命からがら藍閃に辿り着いたのが今はもう随分と懐かしい、とコノエは思う。
殆どの傷は癒え体力も元通りになったものの、あの戦いの時にバルド自らが貫いた剣傷だけは未だ生々しい跡を其処に残している。
見た目の通りその傷は深く、一時は指を動かす事も儘ならない可能性も示唆されていたのだが、医師の治療とコノエの甲斐甲斐しい看病を受けて今は元通り、とまではいかないものの、動かない可能性は無くなった。
この分ならば、時間をかけてリハビリを続ければ、きっと元のように動かす事も出来るだろう。
「…本当に、良かった。」
コノエも、バルドの指が強張らず動く様子に心底ほ、とした様に溜息を零す。
「これも全部、コノエのお蔭だ。」
空いた左手でコノエの頭に手を置いて、優しく撫でた。
「何言ってんだ…アンタが、頑張ったからだろ。」
この傷による発熱もあったし、この寒い季節、隙間風が吹き込む壊れた宿では、簡単な作業をしている間だって痛みは相当なものだった筈だ。
それでも、バルドは弱音も吐かず根気良く治療を続けていたと思う。
「馬鹿だな。コノエが居るから頑張れたんだろうが。」
本当にそうだ、とバルドは思う。
コノエの思う通り痛みは相当だったし、実際時間も掛かったのは本当の事。
だが、大変だと思った事は余り無いのだ。
隣にコノエが居る、この事実さえあれば、特に焦る必要も感じない。
バルドは、本気でそう思っていた。
「コノエには、本当に感謝してるよ。」
「…バルド。」
「有難う、な。」
ゆっくりと顔が近付いて、軽い口付けが施される。
柔らかな感触の唇と滑らかな肌を撫でる手を名残惜しげに離すと、ゆっくりと右手に目線を向け、何度も握っては開き動く感触を確かめた。
「こうしても、もう痛みはないからな。握力は…ま、その内戻るだろ。」
右手をコノエに差し出すと、コノエはそれを受け両手で握り締める。
「…でも、あんまり無理はするなよ。ゆっくり慣らしていけって、医者だって言ってた。」
言いながら、バルドの手を柔らかな動きで摩りマッサージを始める。
これは、傷が塞がった頃医者から命じられたもので、今では二匹の日課だった。
「痛みがあったら、ちゃんと言えよ。」
「いや、全然。」
寧ろ心地良いな、と笑うと、そうか、と照れたような笑みをバルドに向けた。
二匹の間を、ゆったりとした静寂が流れている。
「…ちゃんと動くようになったら、これもしなくて良くなるかな。」
ぽつり、とコノエが呟く。
「んー…。」
それに対するバルドの答えは、何処かはっきりせず曖昧だ。
嫌なのか、とも思ったのだが、向けられた表情は、ひたすら穏やかでこの状況に不満の欠片も無さそうなので、バルドは別にどっちでも良いと思っているのかもしれなかった。
こんな風に、いやらしい意味もなく唯穏やかに触れ合える時間。
バルドの暖かな手を、探す理由も躊躇いも遠慮もなく触れられるこの時間がコノエはとても気に入っていた。
それが気に入っている、と言う点ではバルドも同じだが、コノエは特に顔にも態度にも出るようで、手を優しく揉み解す間中ずっと鍵尻尾を楽しげにゆらゆらと揺らしているのをバルドだけが知っている。
それは、今日も又。
バルドはそれを見逃さず捉え小さく笑うと、その自らの尻尾で鍵の部分をするりと絡めとリ、自分の掌を包み込むコノエの手をもう片方の手で握り締める。
「ま、治ったら今度は俺がしてやるよ。マッサージでも毛づくろいでも、な。」
日頃の礼という奴だ、と嘯くその表情に何か嫌なものを感じ取り、コノエは僅かに眉を寄せて尾を振り払い、その勢いでバルドの左手を軽く叩いた。
「いてっ!」
「アンタがふざけるからだ。」
大して痛がってもいない様子で、それでも手を離すとコノエは憮然として声を落す。
「でもまあ、本当に治ったからって終わりにする事も、ないんじゃないか。」
実際気持ち良いしな、と口にして、バルドがゆっくりとコノエの肩に額を押し付けてくる。
ぐるる、と喉を鳴らして甘えてくるバルドに、コノエはマッサージの手を思わず止めて、自分もバルドの肩に額を押し付けた。
「コノエ…」
自分と同じ様に喉を慣らすコノエの髪に手をやり優しく撫でながら、軽く尾を絡める。
「ちょ…バルド…」
じゃれるように頬に口付ける感触にコノエは少し焦るが、対の琥珀が余りにも優しく見詰めてくるので言葉がそれ以上出てこなかった。
―――――ただ触れるだけの口付けは、いつでも穏やかで暖かい。
啄むようなキスを何度も交わして顔を見合わせると、微かに空気が変わったような気がした。
「…あ…あんまりくっつくないよ。マッサージ中だろ。」
少し顔を紅くして離れようとするコノエを引き戻し、その細身の身体を腕の中に収める。
「だから離れろって!」
「んーもうちょっと。」
間延びした口調でごろごろと喉を鳴らしてコノエに身体を擦り付けるその様子は、まるで甘えた仔猫だ。
甘えられている事実は内心嬉しくてそう思えばコノエの表情も自然と柔らかくなるのだが、大抵それだけでは済まなくなって来るのでコノエ的にはそろそろ離れて欲しい所ではあった。
「バルドっ!ほら、いい加減にしろって。」
強引に身体を放してぺし、と額を軽く叩くと、バルドはちえ、と仰々しく声を上げて肩を竦める。
「ケチだなあ。」
「ケチじゃない。また痛み出したら困るだろ。」
呆れた顔を向け、溜息と共に口にするコノエの言葉に、バルドは苦笑いと共に何時の間にかコノエの両手が外された右手に目をやった。
「良いさ、少し位痛んだって大した事はない。」
バルドは、この上も無く愛しそうな自信に満ちた笑みを浮かべ、自ら刺した傷を撫でる。

嘗ては、悪魔と契約したと言う愚かしく醜い行為の証である痣が刻まれていた場所。
夜毎自分の弱さを目前に叩き付けて、酷く痺れるような痛みと共に耳元で甘言を囁き続ける。
その声に呑まれ気狂いにでもなって堕ちるか、呪いを刻んだ悪魔に食われるか、何れにしてもまともな末路は有り得ないだろう、と思い続けて。
まさか、こんな瞬間を得られるとは思ってもいなかった。

「その方が寧ろ、現実だって思えるしな。」
たまに、夢かもしれない、と思う時も確かにある。
けれども傷口から起こるじわりとした痛みが、こちらが現実だと教えてくれるのだ。
だからこの痛みも、悪いものではない、とバルドは思う。
「…それにこの傷も、ちゃんと、治る。」
そうだろう?と差し出すその手を、コノエはそ、と緩い力で受け取る。
「…ああ。」
きっぱりと口にして頷くコノエに、バルドの表情が更に緩んだ。
その表情にあの頃の様な影はなく、何処までも穏やかに見える。
もう蝕むものは何もない右手に、コノエは安心感を深めた。