にげる




―――――追いかけてくる。
黒い腕が何所からともなく怨嗟の声を引き連れて、記憶の中の魔術師に一矢報いろうと群れを成して、幾つも、幾つも。
違う、と叫んでもそれを腕が聞き入れることはない、それはただ仇を求めて彷徨う幽鬼に過ぎないのだから。
必死に、ただ只管に逃げて。
ああ、それでも
腕、が。



つかまる。



「…………っ!!」
痙攣の様に身体を引き攣らせ、コノエは一気に意識を覚醒させた。
荒い息を吐き呆然と天井を見上げながら、どくどくと心臓が嫌な音を立てるのを耳の奥で聞く。
―――――ああ、また夢を…
「コノエ…」
大きく溜息を吐いたその時、不意に自分のものではない手が、コノエに向かって伸びてきた。

―――――腕。
自分を引き摺り落とす、黒い。

思わずそれから逃れる様に跳ね起き、寝台から飛び降りる。
「…あ…?」
何処かまだ寝ぼけた様な呆然とした声に、コノエははっとした。
もぞりとベッドからゆっくりと起き上がる、見慣れた姿。
あれは、あの腕は。
「…バルド。」
バルドの、だったのか。
「コノエ…?」
寝台の脇で呆然とバルドを見上げるだけのコノエに、バルドは訝しげな表情で寝台から降りるともう一度コノエに向けて手を伸ばす。
今度は、コノエも逃げたりはしなかった。
「…どうした。」
立ち尽くし、硬くなった体をその腕の中に収め囁くバルドに、コノエは軽く首を横に振ってなんでもない、と告げる。
そのままバルドの肩越しに顔を埋めて大きく息を吐くと、御免、と小さく呟き薄暗い部屋を眺めた。

―――――そうだ、もう夢から覚めているのだ。
目の前には、ちゃんとバルドが居る。
あんな風に襲われる事なんて、あるはずがない。
その筈、なのに。

ああけれども、バルドの肩越しに見るこの部屋が何時もと違う気がするのはどうしてだろう。
夢の中のような、ほの暗い何かが蠢いている気がするのは。
「…謝らなくていい、大丈夫だ。」
酷く優しい動きで髪を撫で、しなやかな尾が背に触れる。
自分を宥め、そして凍えた何かから護る様に。
―――――ああ、けれども。
「ありがとう…もう、大丈夫…。」
微かに震える身体を抑えて告げるが、バルドの手が離れる事はなく寧ろその強さが僅かに増した。
「本当か?」
「ああ…それよりもちょうど良い。もうそろそろ起きる時間だろ、アンタもそのまま起きて着替えて準備しろよ。アンタ、そのままだと絶対また寝るから。」
出来る限りいつもの調子で、バルドの胸を押し体から離れると仕事着を手にして素早く着替えをはじめた。
「判ってるが…それよりコノエ、お前本当に大丈夫なのか?」
僅かに眉根を寄せ問われる言葉に、コノエは首を縦に振り手早く髪を一纏めに括りながら扉へと向かう。
「じゃあ、俺先に準備してるから、アンタも早く来いよ。」
「おい、待てコノエ…」
バルドの返事を待たずに、コノエは部屋を飛び出した。
―――――まるで、迫り来る何かから逃れるように。
厨房に飛び込んで扉を閉めると、コノエは僅かに息を吐く。
完全に覚醒している筈なのに、まだ何処か夢の中に居るような感覚でバルドの居ない厨房を見渡した。
朝の明るい光に紛れて、何かがまだ蠢いている。
まるで、この光在る世界からあの暗い場所へコノエを引きずり戻す様な。
その時、かたん、と小さな音と共に何かの気配がして、コノエは尾を膨らませ全身の毛を逆立てた。
「…っ!」
自分は何を驚いている。きっとバルドに違いないのに。
そう思いながら一つ息を吐いて、ゆっくりと振り返るとそこにバルドは居なかった。

ゆらり。

禍々しい気配と共に、コノエの視線を捉えたものが。


腕。

黒くてどろどろとして、如何しようもなく暗く苦しい。



「―――――――――っ!!」
夢と同じ動きでコノエに向かって真っ直ぐに伸びてくるその腕から逃れる為に、裏口から外へ飛び出しそのまま走り出した。
店の準備をしている露天商や道行く猫達の驚く表情など、コノエには見えない。
一体どこへ向かって逃げているのかも、コノエには判別がつかなかった。
―――――まだ、自分は夢を見ているのか。
混乱しかけている頭の隅で、冷静に思う。
夢の中と同じ様に必死で走って、逃げて。
けれどもそれは、どれだけ走っても離れる事無く正確にコノエを追ってきていた。
待て、と何処かから声がする。
それが、コノエの中にあった恐怖を何倍にも肥大させていった。

嫌だ、来るな。
つかまったら、駄目だ。
俺は…、捕まる訳には。

そう思いながらただ必死で走っていると、突然何かに足が引っかかり勢い余って地に倒れ伏した。
「…っつ…」
何時の間にか森の中に入り込み、木の幹に足を引っ掛けてしまったらしい。
拙い、と慌てて起き上がり辺りを見渡すが、先程まで執拗に自分を追っていた筈の腕はもう何処を見ても見当たらない。
朝の光が木々の間から差し込む平和な光景に、コノエの体から自然と力が抜けがくりと膝を付いた。
―――――ああ、もう…大丈、ぶ…
「おい!」
その瞬間、後ろから突然コノエの肩を何かが掴んだ。
「………っ!」
ぶわり、と恐怖に全身に怖気が走る。

駄目だ。
捕まったら、もうあの愛しい場所には戻れない。
それだけは――――――!

「ぅ、あ―――――っ!」
混乱し、ただ腕を振り払おうと、振り返りざま爪を振り下ろした。
「…ぐ…っ」
何かを引き裂く感触と共に、肩を掴む手が一瞬離れる。
その隙に逃れようと動くその寸前に、それは素早くコノエの手を掴んだ。
「コノエ落ち着け!俺だ!」
切羽詰った声と共に覗き込まれるその見慣れた顔に、コノエの動きが硬直したように止まる。
「…あ。」
肩で息をして、毛並みもぼさぼさになったつがいが切羽詰った表情で此方を見ていた。
「おい、しっかりしろ!」
「……バル、ド…?」
「そうだ、俺だ…大丈夫か。」
自分の肩をゆるりと掴むその手が、酷く暖かく染み渡る。
何も考えられないまま、ふ、と力を抜き目の前の身体に凭れかかり大きく息を吸った。
耳元から聞こえてくるのは、僅かに早いバルドの鼓動。
そして、吸い込んだ空気から感じるのは、汗ばんだ肌と…血の匂い。

―――――血?

そういえばさっき爪を振り下ろした時、何かに当たってはいなかったか?
はっと目を見開いて顔を上げ、バルドの顔を見る。
「…バルド、アンタ」
その頬から流れているのは、汗ではない。
赤い、血が。
「…血が…」
流れる血を沿って頬を隠す髪を掻き上げる。
見ると、頬の後ろに出来た深い爪痕から血が流れ落ちていた。
そして、恐る恐る自分の手を見ると。
そこは、やはり赤い血が。
「あー…」
バルドは、さも今気付いたと言わんばかりに其処に手をやり僅かに顔を顰めるのを視界に捉え、コノエにえも言われぬ恐怖が襲ってきた。
どうしよう。
バルドに、怪我をさせてしまうなんて、そんな。
早く手当てしないと、とか、謝らないと、とか頭の中に色々と思う事は巡っているのに、考えれば考えるほど頭が混乱して、如何して良いかどんどん解らなくなくなっていった。
「…あ、おれ、そんな…」
それに何より、自分は一度ならず二度もバルドの手を跳ね除けてしまったのだ。
その事実にコノエは一番ショックを受け、自身の混乱に拍車をかける。
「ごめ…バルド…」
どうしよう、こんな事をしてバルドに嫌われてしまったら。
―――――俺は。
小動物の様に怯え震えながら後ずさるコノエに、バルドは少し眉を顰めてコノエの腕を緩く掴んだ。
「…少し落ち着け、コノエ。」
バルドはそう言うが、それで落ち着ける訳はない。
どう見ても傷は深く、どれだけの力を籠めて傷つけたのか混乱していても判るのだ。
「あ…で、でも…」
「大丈夫だ、こんな傷すぐ塞がる。本当に大丈夫だか…」
「…バルド…ごめ…」
「良いから落ち着けって!」
バルドの言葉など聞いていないようにひたすら謝り続けるコノエに、痺れを切らした様にバルドが声を上げた。
その声に、コノエは驚きに全身の毛を逆立てると、すぐに耳を下げてその表情を青ざめさせていく。
「あ…」
やはり、怒らせてしまった。
どうしよう、俺は――――――
「…っ」
お互いにしまった、と思った時には遅く、コノエはバルドの手を振り払ってその場から逃げようと走り出した。
「待てコノエ!」
バルドの制止を聞かず、コノエは足を進める―――――森の奥へと。
バルドは慌てて捕まえようとするが、瞬発力はコノエの方が上だった。
見失うのは拙い。
森の奥で迷えば見つけづらくなるのは勿論だが、猫の通らぬ所には危険な場所もあるのだ。
普段のコノエなら多少の危険は回避できるだろうが、今はどう考えても無理な話だろう。
「コノエっ!」
だが、コノエはバルドの声を聞き分けず走り続ける。
だが更に奥にある茂みを駆け抜けた途端、足元にあった地面の感覚が突然消え失せた。
「―――あ…」
足元を見れば――――――地面ではなく、沢山の、腕が。
―――――つかまえた。
―――――お前は、もう
―――――戻れない。
「コノエ…!」
「―――――……っ!」
最後に聞こえてきた声に応える事もできぬまま、コノエの身体は腕の中に引きずり込まれていった。

二年近く前に書いたSSの改稿部分でもあります。読み比べると面白いかも?